【特集】「セガハードヒストリア」のヒストリア~または製作日記【第2回】 –

 セガがドリームキャストの製造を中止してちょうど20年。セガハードというと、濃いマニアはいるものの、世間一般からは「マイナーハード」と見られていたと思うが、そんなセガハードが一躍ゲームファンの注目を集め、多くの一般人までもが手にした時期があった。2Dのゲームから3Dのゲームへと急速に進化を遂げ、「ポリゴンゲーム」が人々の話題となった時期。セガが生み出したアーケードゲームの大ヒット作「バーチャファイター」の誕生で、それが遊べるゲーム機「セガサターン」は大人気となった。

 マイナーハードが一躍人気のハードになった追い風を受け、社内で「お荷物雑誌」と呼ばれていた「Beep」の系譜を受け継ぐ本誌は、急速に部数を伸ばしていった。今回は「セガハードヒストリア」で欠かすことのできないセガサターンとそのNo.1専門誌「セガサターンマガジン」の裏話を明かしていく。

【セガサターンマガジン】

「セガサターンマガジン」創刊号は「バーチャファイター」!

週刊化された「セガサターンマガジン」

セガサターンタイトルの体験版を収録したセガサターンCDを収録した号もあった

「社内のお荷物」だった雑誌に次世代の大きなチャンスがやってきた!

 妙にセガハードに肩入れする雑誌としてセガファンの支持を得ていた「Beep」は、ゲーム雑誌の中でも独自のポジションを築きつつあったが、赤字が続いたため1989年5月8日発売号で休刊。ゲーム雑誌部門を立て直すためにスーパーファミコン専門誌の早期創刊を経営陣から命じられていたが、スーパーファミコンの発売延期によって、それはペンディングとなり、その空白を埋める形で『BEEP!メガドライブ』が1989年に誕生したのは前回もお話しした通り。

 「隔月刊ならば」という条件付きで始まった同誌は、その後月刊での発刊に移行していったが、1990年11月にスーパーファミコンが発売され、経営陣と最初に約束していたスーパーファミコン専門誌「Theスーパーファミコン」が創刊されることとなった。主力スタッフの多くはそちらに異動してしまったため、「BEEP!メガドライブ」はわずかに残ったスタッフと新人らで誌面の立て直しをしていくことになった。

当時人気だったセガ体感ゲームのサウンドが収録されたソノシートの付録を付けたりして、独自のセガファンを形成していっていたゲーム総合誌「Beep」

1989年5月8日発売号を最後に休刊した「Beep」ブランドを引き継いだのはセガの16ビットマシン・メガドライブの専門誌「BEEP!メガドライブ」だった

 メガドライブは、サードパーティーのメーカーが一切いなかったセガ・マークIII時代に比べると、セガ以外の会社からの参入メーカーはいたものの、スーパーファミコンの圧倒的な人気を前に、マニア向けの「マイナーなハード」として世間から見られていたと言える。

 当然、その専門誌である「BEEP!メガドライブ」も世間からの扱いは同様で、社内的にも悲しいことだが「お荷物的存在」と言われ続けていた。スーパーファミコンの人気を受けて、隣の「Theスーパーファミコン」は、最高部数29万部を打ち立て、社内でも隆盛を極めていたが、そうした中、セガハード専門誌のメンバーは、まさに“窓際”で月刊誌を細々と作っている感じだった。

 「『BEEP!メガドライブ』の横に『Theスーパーファミコン』を立ち上げることになった際に、ほとんどのメンバーは、スーパーファミコンのほうに持っていかれたんですよ。手元に残ったのは、『ログイン』編集部から来た女性編集者と、右も左もわからない新人2人。あの時は、毎日泊まり込みが続きましたね……。でもその時に入ってきた西村亨さんと石坂英作さんは、その後編集長となりゲーム部門を支えてくれました。おふたりには感謝しています」と当時を振り返るのは、編集長の近藤裕。

「BEEP!メガドライブ」の後期に先代の川口洋司氏から編集長を引き継ぎ、「セガサターンマガジン」でも編集長の指揮を執った近藤裕氏。学生時代は漫画関連の作家などとも交流が深く、求人を出していたゲーム誌『Beep』に志願。最初は「月刊情報処理試験」編集部に配属されるも、当時の「Beep」編集長の豊田氏に懇願し、ゲーム誌へ異動。「セガサターンマガジン」では月刊⇒隔週刊⇒週刊という劇的な刊行サイクルの変化の担い手となった。現在は引退し、毎日趣味で悠々自適に過ごしているという

「セガって、技術屋の集団だったと思うんですよ。ハードの話をしてくれたのはセガの良さ。たぶん、任天堂はそういう話はしてくれないでしょ。開発者の生の声をいろんな形で聞くことができて、個性豊かなクリエイターもたくさんいた。だけど雑誌のほうは、残された若手を含めた戦力が育ってきてくれるまでは、苦労した時期が半年ぐらい続きましたね。セガは家庭用ゲーム機では、二番手、三番手の位置だったけど、アーケードでは一番の位置にいた。そのへんは1993年に『バーチャファイター』が出てきたことで、セガ全体が家庭用ゲーム機の話題も含めて、かなり勢いを増していきましたよね。ただ社内的には『BEEP!メガドライブ』の期待度は低かったので、バカ企画もやりたい放題。お気楽で楽しい時期でした(近藤)」

 長年、マイナー扱いされてきたセガハードではあったが、そんな潮目が変わるきっかけがついにやってくる。1993年9月号。メガドライブの次のハード「サターン」のイメージイラストと次世代ハードのスペックが「BEメガ」に掲載されたのだ。

【SATURN(サターン)】

「SATURN(サターン)」という名前は1993年9月号(8月8日発売)の時点で出てきていた。記事に載せられている予想図がかなり本物に近いイラストだが、この時点ではまだ現物を見ることはできず、聴き取り調査をした内容から推測してイラストに起こしたものであったという。3D CGゲーム時代の到来を受け、ゲーム業界はここから大きく動き始めることになる

 続く1993年11月号では、「今、アーケードゲームの3D CGがスゴイ!」という特集が「BEEP!メガドライブ」誌上で組まれ、ナムコの「リッジレーサー」、セガの「バーチャファイター」などの開発中の画面が、インタビューとともに初めて公開されている。

 この企画を立案したのは近藤編集長だったが、ナムコへの取材は近藤氏が、セガへの取材は西村氏(のちの副編集長)が担当した。

人をリアルタイムで動かすという革新的なゲームとなった「バーチャファイター」と、CGにテクスチャーを貼って、リアルタイムでレースゲームが動くという衝撃的な映像を実現した「リッジレーサー」。本誌のインタビュー記事には、鈴木裕氏や、「メガロポリス」でAS-1用CG映像を担当していた水口哲也氏も登場している。「リッジレーサー」はのちにセガに入社し、「セガラリー・チャンピオンシップ」を作ることになる佐々木建仁氏が担当していたわけだが、後世のキーパーソンがこの頃から頭角を現していきていたのがわかる

 この頃以降の「BEEP!メガドライブ」の誌面は、メガドライブ以上に、次世代機「セガサターン」の記事に力を入れ始め、1994年に入るとさらにその勢いはヒートアップしていく。特に1994年6月のおもちゃショーで、セガサターン版「バーチャファイター」の映像が公開されるや、その注目度はみるみる上がっていった。

「『BEEP!メガドライブ』も93年年末から94年頃には、おかげさまで黒字になってきたんです。当時半期か四半期ごとの会議には、孫正義社長も出ていて、『BEメガもなんとか黒字になりました』と報告したら、『それは良かったな。ただし返本率には気をつけろよ』と言われたのを覚えています」と近藤氏。長年の苦労が実を結んだ瞬間でもあった。

【おもちゃショー】

まだ東京ゲームショウもなかったこの当時は、最新ゲームのお披露目の場所はおもちゃショーであった。ここで初めて実機で動くセガサターン版「バーチャファイター」の映像が公開された

誌面をオフィシャルカラーに一新した「セガサターンマガジン」

 そして、1994年11月22日のセガサターン発売にタイミングを合わせ、「次・世・代ゲーム雑誌もNEXT GENERATION」のキャッチフレーズの元、誌面も一新された「セガサターンマガジン」が1994年11月に誕生し、セガハード専門誌の筆頭的存在として、同誌は3年11カ月112号が発刊されていくことになる。

【セガサターンマガジン】

「BEEP」の名前はなくされ、より王道感が出てほしいという思いから「マガジン」という名称が採用された「セガサターンマガジン」。ハード名も「サターン」ではなく、「セガサターン」というセガが登録商標した名称のほうを使った。表紙のCGはセガAM2研・有井伸孝氏によるもので、よりセガハードのオフィシャルカラーを出すことに成功した。ちなみに創刊号は7万部。本当は10万部を作りたかったが、創刊号は採算をしっかりと出さないとならないという当時の事情もあり、7万部で部決したという。実際に創刊号は、ほぼ完売する形となり、セガサターンの勢いのすごさを見せる形となった

 「バーチャファイター」の移植と、ライバル機プレイステーションとの対比もあり、32ビット次世代ハードは、見事なまでの成功を遂げ、1995年春には、お互いが100万台を突破。

【伝説の表4広告】

これは「セガサターンマガジン」に掲載された表4広告。プレイステーション陣営がいち早く「いくぜ、100万台」のCMを投下したのに対し、セガもすかさず「ありがとう100万台キャンペーン」で対抗。両ハードはCG時代に入ったゲーム業界を牽引していくことになる

 セガは1995年末に「バーチャファイター2」、「セガラリー・チャンピオンシップ」、「バーチャコップ」の見事な移植作を即座に投入し、「セガサターンマガジン」も部数記録を毎号更新していった。そしてついに「セガサターンマガジン」は1995年の年末に月刊誌から隔週誌(月2回刊)へと刊行サイクルを倍増することになる。

セガサターンの怒濤の話題作ラッシュを圧倒的なボリュームの記事で迎え撃つため、セガサターン専門誌として隔週刊化を先行して踏み切ることになった。1995年秋の段階で、社内の幹部から「この秋から隔週刊にしないか?」と言われ、編集長の近藤裕は二つ返事で回答したというが、この1年後には週刊化の話にまで進むことになるほど、「セガサターンマガジン」には勢いがあった

 セガサターンは、1995年の年末商戦で圧勝を収め、瞬間的ではあったがセガハードはその時点のゲーム業界の天下を獲った、と多くの人は感じたことだろう。実際、当時のセガサターンの勢いはものすごいものがあり、各社から入る雑誌広告は表紙以降の前半に50ページ以上にものぼり、ゲーム雑誌部門は最盛期で(攻略本チームも含めて)、会社としても今までにないような売上を記録した。「BEEP!メガドライブ」時代には「社内のお荷物」と言われ、窓際で細々と保護されて生き延びていた雑誌とは思えない大躍進が実現されたのだ。

 実際、その勢いは1996年になっても止まることなく、その夏には、最大部数の32万部を達成。それは「Theスーパーファミコン」が持っていた当時の社内記録の29万部も塗り替えてしまったほどで、セガサターンは一気にメジャーハードへと突き進むことになった。

【32万部突破記念特製テレフォンカード】

当時関係者に限定的に配布された貴重な32万部突破記念特製テレフォンカード。32万部はいわゆる「公称」等ではなく、実際に印刷された「刷り部数」。「Theスーパーファミコン」が打ち立てた29万部という社内の部数記録を塗り替えたのは、まさかのお荷物雑誌「Beep」の系譜を継いだ「セガサターンマガジン」であった。創刊号が7万部、そこから32万部と4倍以上に伸びた部数に、当時の勢いをすごさを感じさせられる。セガサターン専門誌は競合他誌を含め当時は7誌あったが、「セガサターンマガジン」の部数は刊行サイクルも含め、圧倒的なものがあった

 長い間、マイナー的な扱いを受け、冷や飯食いのような視線を浴びてきていた「セガハード専門誌」は、社内でも一躍重要視される位置にのぼりつめ、人気ソフトの攻略本のチームなども新たに編成されるほどにまでなっていた。だが、ゲーム業界は、スクウェアの「ファイナルファンタジーVII」、エニックスの「ドラゴンクエストVII」がプレイステーションへの展開を表明するなど、世の中の流れは、次第にプレイステーションへと傾いていくこととなる。そしてそれは、セガを次の世代のハード、ドリームキャストへと進ませることにつながっていく。その辺の話については、次回書くこととする。

ゲームクリエイター花盛りの時代

 さて、こうしてメジャーハード並みの人気を博することになったセガサターンだが、初期には「バーチャ専用機」、「X指定ソフト」といったネガティブな意見も一部にはあった。だが、1996年の頃にはそれらを覆し、セガサターンはオリジナルソフトのヒット作を多数生み出していく。

 ソニックチームの「NiGHTS(ナイツ)」(1996年7月5日)、「サクラ大戦」(1996年9月27日)、「グランディア」(1997年12月18日)などはその代表作と言えるが、セガサターンの時代は、ゲームクリエイターが大きく花開いた時代であったとも言える。一方で、サードパーティータイトルがメガドライブ時代とは桁違いに増えたこともあいまって、「デスクリムゾン(通称:デス様)」といったいわゆる超のつく「迷作」が生み出されたのも、セガサターン時代の特徴でもあった。

【セガから生まれた名作たち】

セガサターン時代はオリジナルの名作を多数輩出した時期でもあった。「バーチャマシン」と呼ばれ、アーケード移植がメインだった前半のセガサターンに対し、1996年以降は、クリエイターの才能が大きく開花した作品が次々と生み出されていく

【名物企画「セガサターン読者レース」】

「セガサターン読者レース」で首位争い以上に熱い展開となった最下位争い。なんと読者の投票平均が初登場の時点から1.0909という驚異的な評価が下された「デス様」こと「デスクリムゾン」。「最下位帝王」争いは、メガドライブ以上に盛り上がりを見せた。後日談として聞くことになるが、実はセガのデバッグチームは、ドリームキャスト時代にはかなり整備されて、すべてのサードパーティーソフトがキチンとデバッグされる体制になったのだが、セガサターンの時代には、まだそこまでの整備がされておらず、セガからノーチェックのまま発売されるソフトも多かったという。セガのサードパーティー対応がもしも完備されていたらとしたら、セガサターンに「帝王デス様」は誕生していなかった……のかもしれない

 そして我々もメガドライブの頃とは比較にならないほどの新作・話題作ラッシュに沸くセガサターンの状況に呼応するため、1997年1月31日発売号から「セガサターンマガジン」は、「専門誌ゲーム雑誌」としては初の週刊化をスタートすることになる。

「週刊化というのは、実は現場では大反対していたんですけど、これは半分社内的な事情も大きかったんです。1995年にWindows95が大ブームとなって、Windows系PC雑誌が多数刊行されたのですが、2年もすると、その人気も沈静化してきて、PC雑誌の売上が大きく落ちてきていたんです。 「スーパー64」(注1) も不調でした。だから当時ものすごく勢いのあったセガサターンとプレイステーションのゲーム雑誌のほうへ『刊行サイクルを今の倍にすれば、売上も倍増するだろう』なんて無茶振りを経営サイドからされたんですね。ここまで時間をかけて育ててきたスタッフには申し訳なかったですけど、最終的に週刊化は受け入れて、『セガサターンマガジン』は週刊誌となったんです(近藤)」

注1:「スーパー64」……「Theスーパーファミコン」の後継となるNINTENDO64専門誌

 週刊化の当初は、未体験の刊行ペースと、誌面の質の確保に現場はかなり苦労をすることになる。実は、隣の「ザ・プレイステーション」は二班体制で週刊誌を回していたが、「セガサターンマガジン」、そしてその後の「ドリームキャストマガジン」では、最後まで一班体制で週刊を回していったという。

「やっぱり、対メーカーの担当者として対話する際に、号によって記事の質に波があるのは、読者に対してもできないことだったから、頑張って一班で週刊を回したんです(近藤)」

 その後スタッフも週刊サイクルに次第に慣れていき、記事のレベルも隔週時代を超えるものとなる。そして、その勢いを止めることなく「セガサターンマガジン」は週刊体制のまま最後まで突き進んでいった。

 だが、「FF」、「ドラクエ」のプレイステーション陣営への移籍で大きく傾いた天秤は戻ることはなく、セガはテレビCMに「せがた三四郎」を投入し、一方で湯川専務の自虐的テレビCMを開始。最後のセガ家庭用ハードとなる「ドリームキャスト」を仕掛けていくことになる……。

 さて、そんなセガハードとして天下を獲りにいった熱い闘いの足跡は、3月26日が最終受注の「セガハードヒストリア」で、あらためて手に取って感じてもらうことができるはずだ。

 「セガハードヒストリア」には、セガ3大ゲームハード専門誌「BEEP!メガドライブ」「セガサターンマガジン」、「ドリームキャストマガジン」すべての号をダイジェストで振り返りつつ、当時のクリエイターたちも登場。セガハード撤退からちょうど20年経った今だからこそ語れる、貴重な話も収録されている。

 「セガハードヒストリア」は完全受注生産品のため、3/26までの注文最終日以降は、入手することはできないセガファン必携のアイテムだ。当時の熱い思い出を蘇らせたいセガファン贈る超限定商品。注文するなら、今しかない!

【メイキング・オブ・『セガハードヒストリア』その4】

当時の歴代セガハードに関わったクリエイターたちは、セガのハード撤退から20年経った今、当時のセガハードをどう分析しているのか。メガドライブからセガサターンの時代にかけて、ハード戦略に欠くことのできなかった名作RPGを生み出した高橋兄弟(高橋宏之氏と高橋秀五氏)。「セガハードヒストリア」収録のインタビューでは、ファミコンで活躍していたさなかにどのようにしてメガドライブ陣営に参加することになったのか、「シャイニング」シリーズを通じて、セガの歴代ハードとユーザーに何を届けたかったのか、独自の視点も含めて当時語って頂いている

【メイキング・オブ・『セガハードヒストリア』その5】

「BEEP!メガドライブ」、「セガサターンマガジン」、「ドリームキャストマガジン」には、読者が買ったソフトの点数を10点満点方式で投票し、その全ソフトの平均点をランキング化した人気コーナー「読者レース」が好評を博していた。今回「セガハードヒストリア」では、取材した当時のクリエイターたちに、セガ歴代ハードを10点満点で投票してもらう「セガハード読者レース(クリエイター版)」の企画が掲載される。はたしてセガファンにも思い出深い各ハードは、平均何点を取り、どのハードが一番評価が高いのか? こちらの結果は、「セガハードヒストリア」購入者だけが見ることができる

【メイキング・オブ・『セガハードヒストリア』その6】

せっかくのメモリアル書籍を作るのならば、なにかプラスアルファの「おまけ」を付けたい。「見て」、「触って楽しいものをということで生まれたのが本製品の付録。文具からアパレルに至るまで、さまざまなアイデアを検討。せっかくならば広い層に喜んでもらいたいと考え、「見て」楽しいものとしてセガハードのミニチュア、「触って」楽しいものとしてゲーム(メガドライブソフト10作品)が選ばれた。

「セガハードヒストリア」収録タイトル紹介第2弾 「スタークルーザー」、「アンデッドライン」

 本書の企画発足当時はメガドライブミニの収録タイトルが判明しておらず、タイトルの選定はその動向を横目で眺めつつになった。最終的にメガドライブミニには42本ものソフトが収録されることになるわけだが、この本数は同種の製品であるニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータの30本と比較しても圧倒的。さすがの充実度と言ってよく、主要なタイトルは概ねカバーされている。そのラインナップを見た我々のほうはというと、「これは入れなければならない」的な義務感から解放され、逆に気持ちに余裕を持つことができたのだった。

【スタークルーザー】

 「BEメガ読者レース」では初登場5位にいきなり食い込んできた「スタークルーザー」。最終評点は第70位、読者点数は8.2533と高く、メガドライブを代表する3Dシューティングの金字塔とも言える。最大の特徴は、メガドライブでは初となったポリゴンで描かれたゲーム画面。今の時代からすればレトロに感じるかもしれないが、発売された当時は徐々に目の前に迫ってくる惑星の巨大さに“実在する未来世界”を感じたのだ。愛機スタークルーザーを駆り、広大な宇宙股にかけ宿敵VOIDと戦っていく壮大なストーリー展開は、最後までドラマチックだ。

【アンデッドライン】

 「BEメガ読者レース」の最終結果は第323位、読者評点6.6428。オリジナルはMSX2で名を馳せた名作であるが、なんといってもメガドライブ版の復刻はこれが初となるという点は注目に値する。現在は入手が困難なソフトでもあり、レアリティ度も高いことを考慮して収録タイトルに選ばれた。戦士レオンとなって全6+1ステージに及ぶファンタジックな世界で戦う縦スクロールのシューティングゲーム。降雨や川の流れなどの自然表現や、個性的な攻撃を仕掛けてくる巨大ボスなどが見どころだ。



著者: " -- game.watch.impress.co.jp "

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